Linking Thinking

あるものAを何か別のものBと関係付けること.
一言で表せば「連想」である.
ただ一般的な連想は文脈先行である.
つまりそこではAからBへの架橋が自然な流れで行われる.
ここではそれに留まらない意味を「連想」に含める.

すなわち,文脈先行に対置してそれを「現物先行」と呼んでみる.
(…名付けるのが下手なのはご愛嬌で)
頭の中に,CとDがある.
CとDに直接の関係はない.
雑多な日常の各々の文脈に,それぞれお互いを意識せず息づいている.
そこで,たまたま両者が同時に頭に浮かんだとする.
 デスクトップのメタファーでこの状況を表現してみる.
 雑多な日常に対する思考のうち念頭にないものはフォルダに格納されている.
 今の今,頭を働かせている自分が意識しているトピックはデスクトップに散乱している.
 思考の要素一つひとつを何かしらのファイル(.txtでも.xlsでもいい)に想定している.
デスクトップ上の二つのファイルを同時選択したようなイメージ.
ここから例えば「両者が同時に頭に浮かんだ」ことを縁とし,文脈の探索を始めてみる.
この縁というものを,要は「何でもありの代物」に仕立て上げる.
 CとDの語感が似ているからという理由でもいい.
 それは詩の創作動機でもあるだろう.

「意味がある」というのは言葉の使用の前提のようなものだが,
「意味をつくる」のは言葉の根源に触れる操作である.

「関係がある」というのは元々存在する意味の把握だが,
「関係をつくる」のは思考の根源に触れる操作である.

これは「かつて誰も考えたことのないもの」を目指すものではない.
潜在意識を語る知識が不足していて詳細に説明できないが,
きっと語義通りのそれは誰にも理解されない.
そうではなく,言われれば「ああ,僕もそう思っていたよ」と思われるような思考.
つまり,「言葉にされたことのない普遍」.
全ての言葉は「それが言葉である」という共通の性質を持つ.
きっとそれが言葉における全てを包括する普遍.
しかしこの事実は当たり前という以上に何も表現しない.
普遍が広すぎると,客観を知る個人でも個別の意味を見出せない.
だから「個別の意味が各々に見出せるような普遍」を目指す.
「個別」と「普遍」は一つの文脈の中では相反する.
その文脈に引き入れるべきは,「個人の思考(様式)に潜む共通点」.
その共通点を,それと分からないように含ませた表現.
その表現は,様々な言葉とリンクする可能性に富んでいる.
一つの意味に留まらない開放性.
散漫でなく,かつ閉鎖的でもない.
そのバランスを,具体を積み上げる経験を通じて体得する.
「具体を積み上げる経験」を独自のものとするためにはきっと,
「在る関係」を把握するだけでなく,
「創る関係」という未定にも目を向ける必要がある.
無知な自分にとってその両者の違いを判別することは難しい.
生きている間に「在る関係」の全てを把握できるとも思えない.
しかし重要なのは両者の「実際的な区別」ではない.
その区別すら「意味」だからだ.
重要なのは,気概だ.

11.11.02


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