ふと考えてみると

ちひろ氏は「PC上の文章を考えて読めない」.
これはひよわな目がディスプレイの長時間正視に耐えられないことによる.
つまり「自分で書いた文章を読み返せない」.
これは久しぶりにちょこちょこ更新していて気付いたこと.
なぜかって,既に前に書いたことを色々忘れている.
そして前に書いたコンセプトを維持する意志がない.
これは致命的である.

これが致命的でない場合がただ一つあって,
それはHPのコンセプトが「気の向くままに書く」である場合だ.
これだとブログと変わらない.
だからこそ本HP設立当初は何やら遠大な計画があったものと推察する.

これらから導かれる結論は一つ.
「目に大変優しいディスプレイ」の早期商品化を望む.

一文を短く

「比喩を書く」という一つ前の記事を,一つのことを気にして書いた.
それは「一文を短くして書く」こと.
内田樹がブログで次のようなことを書いていた.

翻訳されることを前提として書かれた文章は構造がはっきりしていて一文が短い.

そして村上春樹はそのような書き方をしている,とも.
『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいて,確かに僕もそう思う.
以前,一文が短いことに単純さや平易さを僕は読み取っていた.
もちろんそのことが全てマイナスにはたらくことは有り得ない.
そして村上春樹の文章からはある種の力強さが立ち上がっているように思う.
僕の感じていた,単純で平易な短い文章の集積から得られる以上の力強さがそこにある.
だから,僕の短文に対するイメージは偏見でしかないのかもしれない.

それがそうと分かるのかそうではないと分かるのか,実験をしてみようと思う.

比喩を書く

「書評をあまり書かないかもしれない」宣言を少し前にした.
書評サイトの投稿が一区切りついたのがその理由の一番だ.
そして最近はその宣言通り,全然書いていない.
それを読んでいる本の難しさのせいにできないこともない.
しかし,きっとどんな本でも,何か書こうと思えば書けるのだ.
むしろ今の自分の読書スタイルが書評執筆に向かないと言いたい.

小説にしろ評論にしろ,読んでいる間に何か閃けば文章を書きたくなる.
閃くとは主に連想のことで,本のとある内容と「何か」が結びつく.
その「リンクした瞬間の煌めき」がまず最初にある.
文章を書きたくなるのは,煌めきに付随する沢山の「なぜ?」の解明のためだ.
煌めいた瞬間に,自分の中の「ある感覚」は既に納得している.
だがその納得はとても仄かで,すぐに消えてしまう.
だから「ある感覚」を言葉に直して,自分に定着させる.
言葉にすることで失われる感覚をなるべく損なわないような仕方で.
それは矛盾なのだが,目指す方向性としてはすぐに一つ思いつく.
「ある感覚」を,そのまま言葉に直そうとしないことだ.
だから比喩があり,小説がある.
「ある感覚の比喩」とは,「ある感覚」を直接表さない性質を備えた全てである.
すなわち,あらゆるものが比喩になりうる.
だから小説は比喩である,とも言える.

その煌めきを,あるいは煌めきに反応した「ある感覚」を残したいと思う.
それを残したいのは,人と感覚を共有したいから.
自分が文章を書くのはきっと,人とつながりたいから.
もっと言えば,色んな人が,色んな人とつながって欲しいから.

文章を書く目的の持つ迂遠性は,その秘めた壮大な夢にある.